聖隷クリストファー中・高等学校
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教育環境・学校沿革

医療・福祉・教育が一体となった幅広い学びのフィールド

聖隷ならではの教育環境

本校が位置する三方原エリアには、聖隷グループの医療・福祉・教育の各施設が集積しています。この恵まれた環境を生かして、授業をはじめ、部活動やキャリア教育など、さまざまな教育活動において聖隷グループとの連携を図っています。校内に留まらない広大な学びのフィールドでの新たな出会い、気づき、感動が、生徒一人ひとりの豊かな成長につながっています。

全国約300の施設を持った聖隷グループ

医療施設
聖隷三方原病院、聖隷浜松病院、聖隷予防検診センター、聖隷健康診断センター、他
福祉施設
聖隷厚生園、浜松十字の園、浜名湖エデンの園、小羊学園、他
教育施設
聖隷クリストファー大学・大学院、 聖隷クリストファー高等学校、 聖隷クリストファー中学校、 聖隷クリストファー大学付属クリストファーこども園 聖隷クリストファー大学5号館1階に、聖隷の精神と歴史、聖隷グループを紹介する「聖隷歴史資料館」があります。

聖隸の歩み

1930(昭5)年5月、貧しい父子が若きキリスト者たちを訪れた。青年の顔は青白く、息も絶え絶えであった。この子は結核を病んで住居を転々とし、「天地の間に五尺の身体の置き所さえもない……」と、父親は涙ながらに語った。キリスト者たちはこの青年を迎え入れ、看病にあたった。この愛の業が今日の聖隷グループの端緒となった。

当時の結核は、家庭を破壊し、隣人を遠ざけ、生命を奪っていく恐ろしい伝染病であった。このため、彼らは幾度となく土地を追われた。1931(昭6)年、ようやく入野村にバラックの病舎を建てることができ、ベテルホーム(神の家)と名付けた。しかし、療養所として形を整えてきた頃、道に杭を打つなど周辺住民の反対運動が起こった。

彼らは反対者に対しては心を尽くして理解を求め、病者たちには持てるもの一切を投じて善き友になろうと努めた。粗末な病舎ながら、そこには満足して療養する患者たちのやすらかな顔があった。患者たちが残した食事を煮沸して食べ、着のみ着のままで看護に専心するキリスト者たちの姿があった。

彼らの働きは、心ある人たちに大きな感動を与えた。理解者が加わり、三方原に広大な県有林の払い下げを得ることができた。1937(昭12)年3月、彼らはこの荒野を安住の地と定め、聖隷保養農園と改称した。しかし、またも反対運動が起き、その激しさは施設襲撃の直前にまで及んだ。加えて経営の困難は日毎に進み、百人近い患者と職員を抱え、食べ物の調達さえできなくなった。1939(昭14)年12月24日、園長はついに施設の閉鎖を決意した。翌25日のクリスマスの日、思いもよらぬことが起こった。天皇陛下より御下賜金を拝受し、潰えんとした事業は劇的に救われたのである。

そして終戦。聖隷保養農園は、戦災者や引揚者にも愛の手を差し伸べていった。日本の前途には厳しさが横たわり、人々は生きる力を失っていた。「日本の復興は青年の精神の復興にあり」

——— 聖隷の教育事業が始まった。

現在、医療・福祉・教育の一大ゾーンとなっている三方原の地は、移転当時はまだ一面の松林でした。結核で苦しむ人々を助けたい、という志を同じくする仲間たちの手によって文字通り鍬で切り開かれ、少しずつ夢が形となり、今日の姿に至ったのです。

聖隷グループの歴史は、まさにこの「開拓」の連続。理想に向かって挑んでいくそのスピリットは、脈々と受け継がれています。

社会事業を目的に「聖隷社」を創業

1921年(大正10年)

浜松商業高校を卒業した長谷川保、ブラジルで大コーヒー園主になる夢を抱いて東京の「日本力行会海外学校」に入学。キリスト教の精神を学ぶうちに、「お前は日本にとどまり、日本民族の救いのために働け」という神の啓示を聞く。

1926年(大正15年)

長谷川保ら約10名のキリスト教青年たち、社会事業を目的として「聖隷社」を創業。

迫害を受けながら、重症の結核患者たちを看護

1930年(昭和5年)
結核を患う桑原昇次郎青年を受け入れたことが契機となり、無償で重症の結核患者たちの世話を始める。
1931年(昭和6年)
「ベテルホーム(神の家)」と名付けた施設で、迫害を受けつつも事業を続ける。
1937年(昭和12年)
社会運動家 賀川豊彦の尽力で集まった献金を資金に三方原へ移転。「聖隷保養農園」と改称。雑誌「主婦之友」の取材記事によって結核患者の療養施設とわかり、周辺住民の反対運動が起こる一方、全国から重症の結核患者が殺到する。
1938年(昭和13年)
社会事業の認可を受けるが、迫害は一層激化。
1939年(昭和14年)
ついに「聖隷保養農園」の閉鎖を決意した12月25日、昭和天皇より「特別御下賜金(5,000円)」を受ける。これによって、10年にわたる迫害が終わる。
1942年(昭和17年)
「財団法人聖隷保養農園」の設立が認可。
聖隷保養農園附属病院開設(聖隷三方原病院の前身)。

戦後の復興に尽力。 教育事業をスタート

1945年(昭和20年)
終戦。戦災者・引揚者らの収容施設を開設。
1946年(昭和21年)
長谷川保は、戦後初の総選挙で衆議院議員に初当選。
生活保護法制定に取り組む。
1949年(昭和24年)
各種学校「遠州キリスト学園」設立。
今日の教育事業の出発点となる。
1952年(昭和27年)

「聖隷准看護婦養成所」開設。
社会福祉事業法による社会福祉法人の認可を受け、「聖隷保養園」と改称。

日本初の特別養護老人ホームを開園

1961年(昭和36年)
全国で初めての特別養護老人ホーム「十字の園」を開園。当時「特別養護老人ホーム」という言葉はなく、同ホームを視察した日本政府が2年後の1963年に老人福祉法を制定し、初めて特別養護老人ホームを位置付けた。
1962年(昭和37年)
「聖隷浜松病院」開設。
1966年(昭和41年)
「学校法人聖隷学園」設立。
「聖隷学園高等学校」開校。
知的障害児施設「小羊学園」を開園。
1969年(昭和44年)
「聖隷学園浜松衛生短期大学」開学。

福祉専門職養成の草分け

1978年(昭和53年)
養護施設で働く寮母、指導員育成のため、「福祉医療ヘルパー学園」開設。
これは、1987年に「社会福祉士及び介護福祉士法」が制定される呼び水になり、介護福祉士養成校のモデルとなる
1982年(昭和57年)
聖隷三方原病院内に、日本初のホスピス「聖隷ホスピス<緩和ケア病棟>」開設。
1984年(昭和59年)
マザーテレサ来校。
1988年(昭和63年)
「聖隷介護福祉専門学校(介護福祉学科)」開校。
介護福祉士を養成する厚生労働大臣指定の専門学校として日本で最初に開校。

幅広い医療・福祉・教育事業を展開

1989年(平成元年)
日本生命保険相互会社と業務提携して「ニッセイ聖隷健康福祉財団」設立。
1990年(平成2年)
東京海上火災保険株式会社との共同事業で「聖隷コミュニティーケアセンター」開設。
1992年(平成4年)
「聖隷クリストファー看護大学(看護学部看護学科)」開学。
1998年(平成10年)
「聖隷クリストファー看護大学大学院看護学研究科看護学専攻(修士課程)」設置。
2001年(平成13年)
聖隷学園高等学校を「聖隷クリストファー高等学校」に名称変更。
2002年(平成14年)
聖隷クリストファー看護大学に社会福祉学部を増設し、「聖隷クリストファー大学」に名称変更。聖隷学園浜松衛生短期大学を「聖隷クリストファー大学看護短期大学部」に名称変更。
「聖隷歴史資料館」開設。
2004年(平成16年)
大学にリハビリテーション学部、大学院に社会福祉学研究科を開設。
2006年(平成18年)
大学院にリハビリテーション科学研究科を開設。
高等学校に英数科を開設。
2008年(平成20年)
社会福祉学部にこども教育福祉学科、
大学院に博士後期課程保健科学研究科を開設。
2009年(平成21年)
聖隸クリストファー中学校開設。
2011年(平成23年)
聖隸クリストファー大学付属クリストファーこども園開設。
2016年(平成28年)
「聖隷クリストファー大学介護福祉専門学校」開設。
2020年(令和2年)
「聖隷クリストファー小学校」開設。
2022年(令和4年)
聖隷クリストファー中学校2コース制へ(中高一貫コース/グローバルスクールコース)
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